「村上春樹雑文集」の"東京の地下のブラック・マジック"で「アンダーグラウンド」に興味を持ち、「アンダーグラウンド」を読み終わり、再び「村上春樹雑文集」に戻ってきました。
両作を読んでから色々と考えました。
オーム真理教という閉ざされた世界と同じように、我々も皆閉ざされた世界に属しています。会社や学校などの組織です。
それぞれの組織には、自分たちの目標なり役割を果たすための独自のルールが存在し、その組織に属する者は「個人の好みや信条と違ったことでも」貢献しようと行動しています。
こういった閉ざされた世界が、現実社会には無数に存在し、それぞれが結びついて「社会」を構築しています。
この社会にも、倫理や法律といったルールが存在し、社会に属するものは皆このルールに従います。
また、この社会にも目標や目的があります。経済を発展させていくことや、自分たちの権力を増大させていくといった目標があります。
こうやって構築された「社会の仕組み」にあわせて、我々個人は自分に与えられた役割を果たしていくこととなります。ある者はすすんで前向きに、ある者は渋々ながらも。
オーム真理教はそういった社会の仕組みと自分達をあわせたくなかった。
オーム真理教に身を寄せた信者も、同じように社会の仕組みに自分をあわせたくなかった。
それゆえに反抗した。
社会に合致しない、つまはじき者は虐げられる。追いやられる前に反抗するしかない。彼らは可愛そうなことに、追い詰められていたのでしょう。
もし仮に、社会のルールや目標・目的が正しくなかったら。
それに気づいたな自分はどう行動するだろうか?
例えば、ロボットに支配され、自分以外の大多数の人間が、ロボットの奴隷にように働かされている。そういうシステムが出来上がっている。
しかし大多数の人間は奴隷であることを普通で感じている。脳をコントロールされているのだ。だから誰も逆らわない。
しかしごく一部の人間は、そのシステムの問題に気づいており、自分たちは合わせられないと反抗している。
ターミネーターの世界のような世界観。
追い詰められたら、自分たちの信じる世界を守るために、革命を起こすしかないと考えるかもしれません。
当時のオーム真理教と社会システムの姿にも似ているようにも感じます。
それでも、1995年にオーム真理教が行った行為はやはり問題だったといわざるをえないと思う。武力や知力を邪悪に用い、社会の「一分子」を無差別に攻撃することが、社会への反抗の正しい姿とは思えない。もっと違う方法もあったはずだと思う。
私には今現在は何が正しいかは判断できません。
「アンダーグラウンド」でインタビューされていた人々のように、殺人的な満員電車で1時間も2時間も通勤する(それも何十年の間も)姿は、正しいとも言い切れないし、正しくないとも言い切れない。ただ実際には苦しい。通勤電車に乗ればそれはすぐにわかる。
少しでも豊かな暮らしを実現させるために、経済の発展を最優先に消費の拡大をすすめる資本主義は、正しいとも言い切れないし、正しくないとも言い切れない。しかし、物欲をあおられ、流行に踊らされて、今買った話題の品は暫くしたら無用の長物になる。これもわかる。
マスコミの報道、ネットの情報、広告宣伝などに惑わされずに、自分の目で見て、耳で聴き、肌で感じることで、「これは正しい」と判断できるようになりたいとおもっている。今はそれだけを考えています。
今日は関西大震災から24年が経過した日。
猪年は何かが起きると言われています。何事もないことを祈りたいものです。